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タイ or シャム~歴史家としての国名変更運動

2009年、国名をタイからシャムへ変更するよう、首相へ陳述書を提出したチャーンウィットさん。数十年にもわたり、国名変更のための運動を続けているその真意は何処にあるのでしょう。

そもそもの始まりは1939年。第二次世界大戦が始まった年、プレーク・ピブーンソンクラーム陸軍元帥が首相を務める政権によって、ほとんど衝動的に「シャム」から「タイ」へと改められました。

“タイ民族の土地”を意味するThailand。もともと、その土地には、タイ族、モン族、アカ族、カレン族、クメール人、ラオス人、広東人など40~50以上の民族が、それぞれ固有の言語を持ちながら暮らしていました。

当時の政府は、「シャム」は異なる民族が混ざり合い暮らしている土地のため、そうした人々を支配するのは戦時下では容易ではないと考えていました。国が分裂崩壊を起こすことを恐れたのです。

siam.jpg民族的観点から言えば、「シャム」でも何ら問題はなかったのですが、これでは誰がこの国の支配者なのかわからない、それではダメだという思惑により改名に至ったといいます。

民族性をベースに、つまり支配階層であったタイ族を考慮して、Thailandという新しい国名に変更したのです。歴史が長い間、そうされてきたように、上層部やエリート層により、社会的・政治的バランスを支配するための強いツールとして国名変更がなされた、とチャーンウィットさんは言います。

“「シャム」が「タイ」に改名されるまでは、この国の人々には人種的・民族的偏見で他者を見下す風潮はありませんでした。いにしえの「シャム」では、人々は多様性を受け入れ共存していました。

自分たちを主流派であるタイ族の子孫だと考えているバンコクに住む人々の大半は、タイ北東部に住むラオ族の子孫をばかにしているようなところがあります。

民族的に言えば、最南端地域のイスラム教を信仰する集落はタイ族ではなく、マレー系の子孫です。にもかかわらず、領土統合という理由だけで彼らはタイ人と自分たちを呼ばざるを得なくなったのです。”

政治的見解の対立に加え、民族差別によっても国民は分裂しかねないという危機感が常につきまとうタイ。そして国名を「シャム」に改めることは、この国の、これら根深い問題に対しての解決への足がかりになるはずだとチャーンウィットさんは主張します。

“ルーツは違えど、我々は今一緒に暮らし、この国において同じ国民なのです。歴史は多様な人々のために存在しなければなりません。これはとても重要なことです。

政治問題は国名を改めるだけでは、決して解決できません。しかし、政治的和解の足がかりにはなります。平和的共存への道を開き、全国民の間に社会の多様性をしっかりと認識するための下地を作ることはできるはずです。

我々のルーツがどこであろうとも、私たち自身、我々のアイデンティティを知ることは必要なことです。もし歴史の改革と新しい解釈、そしてより多くの民族に焦点があてられれば、歴史も新たな生命が宿るのです”と。

国名を「シャム」に戻すことが、国としての統一と和解につながると考えているチャーンウィットさん。改名は、この国の歴史を探究し、誰よりも深く愛する歴史家ならではの主張だったのです。

さて、タイ or シャム、国名論争はどこへ・・・

Bangkok Post(2009年5月)インタビュー記事より
http://www.bangkokpost.com/news/local/16824/what-s-in-a-name(現在は非公開)
http://rupadiawan.blogspot.jp/2009/06/wwwbangkokpostcomnewslocal16824what-s.html(転載ページ)
The Star Online(2007年4月)インタビュー記事より
http://thestar.com.my/news/story.asp?file=/2007/4/14/focus/17425976&sec=focus