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2001年授賞式レポート

2001年(第12回)福岡アジア文化賞授賞式

開催日時
2001年9月13日(木)/14:00~16:00
会場
アクロス福岡シンフォニーホール
参加者
約1,100名

2001年(第12回)福岡アジア文化賞授賞式は、受賞国大使館関係者をはじめ、留学生、国際交流団体、経済団体、大学や地域団体の代表者及び市民など約1,100名の参加を得て、福岡サロンオーケストラによる演奏の中、式典が厳かに始まった。

福岡アジア文化賞の創設の経緯を説明後、今回の受賞者のプロフィールや受賞にいたったこれまでの研究・芸術・文化活動の一端をビデオで紹介し、その業績を讃えた。その後、主催者代表挨拶、来賓による祝辞、選考経過報告と続き、主催者により賞の贈呈が行われた。

4名の受賞者は受賞後のスピーチで喜びを表し、福岡市民や福岡に対するメッセージなどを語った。

また特別演奏として、現代箏曲の源流となる筑紫箏による演奏が披露され、式典にいろどりを添えた。

大賞受賞者によるスピーチ

このような栄誉をいただき誠に光栄に存じます。私たちの活動を認めてくださったことを大変うれしく思います。今後の私たちの使命を続けていく上で大きな励みとなることでしょう。

1976年に、貧しい人々が高利貸しからお金を借りずにすめばと思った私は、42人に自分のお金を 27ドル貸しました。そのお金を受け取った人々は大喜びでした。こんなわずかな金額でこれほど多くの人をこれほど幸せにできるなんて、なんとたやすいことかを目にした私は、恒久的に彼らがお金を手に入れられる方法を考えなければと思いました。そこで銀行に行き、彼らにお金を貸してほしいと頼みました。銀行は、貧しい人々は担保になる物が何もないから融資はできないと言ったのです。

私は銀行の言うことが本当かどうか自分で確かめるべきだと考えました。自ら保証人になり、貧しい人のために銀行から融資を受け、そのお金を彼らに貸すという単純な方法を試みました。うまくいきました。だれもが自分の借りたお金をきちんと返済したのです。
この出来事からその後のすべての実験が始まりました。私は、1つの村の貧しい人にわずかのお金を貸すことから始め、その村の数を5つ、それから20、50、100へと増やしました。すべてうまくいきました。それでも銀行は考えを変えようとはしませんでした。

1983年に、ついに自分たちで銀行をつくりました。今、私たちはバングラデシュの4万の村で、240万の人々に融資をしています。その95パーセントが女性です。 私たちは、自分たちや他の人々の考えをもとに組織や方針をつくっていきます。自分たちの周りにいつも貧しい人々がいるというこの事実を念頭におきます。そうです。貧しい人々がいるのです。もし、人類が本当に、貧困は受け入れられるべきではなく、文明社会にあるべきものではないという確固たる信念をもっていたら、これまでに、貧困のない世界をつくるという目的のために必要な機関をつくり、政策をたててきたことでしょう。人間は月に行きたいと思いました。そして月に行きました。お互いのコミュニケーションを瞬時に行いたいと思いました。そのために通信技術に改良を加え高速通信を実現しました。人間は自分たちのやりたいことを達成してきたのです。もし、何かを成し遂げていないとすれば、それを成し遂げようとする思いの強さが不足していたからだと考えます。

私は、貧困なき世界をつくろうと思えば実現は可能だと信じてやみません。この世のだれ一人、貧困者として扱われることのない世界をつくることができるのです。そこでは、貧困は博物館の中でしか目にすることができないものになります。子どもたちは貧困博物館に行き、そこで人間の惨めで非人間的な姿を見て恐れおののくことでしょう。そしてこれほど数多くの人々が貧困にあえいでいたのに、何もせずただ手をこまねいてきた、自分たちの親やそのまた親の責任を追及することでしょう。 私は、いつも貧困の解消には、方法や手段を見い出せるかということよりも、心の問題が大きく左右すると考えます。今でさえ、私たちは貧困の問題を直視しようとはしません。貧しい人々はもっと働きさえすれば貧困から脱却できるというだけで、この問題に踏み込もうとしないのです。

私たちは貧者に手を伸ばすときには慈善(チャリティー)を与えようとしますが、ほとんどの場合、その慈善を、問題を直視して解決の道をさぐる努力を避ける窓口としてしか使いません。慈善を口実に責任を逃れているにすぎないのです。慈善は貧困解決の道ではなく、自ら何かを行うというイニシアチブを貧者から奪うことになり、貧困は永久に貧困のまま残ってしまいます。私たちは、慈善さえ施せば他人の生活を心配せずにいられると考えますが、それでは、私たちの良心は生かされていないのです。

 この賞をいただいたことに感謝します。私を賞に選ぶことで、自分たちと子どもたちが威厳をもって生きることができるよう、一生懸命働こうと意気込む世界中の何百万の人々を一緒に誉めたたえてくださっていることになるのです。

学術研究賞受賞者によるスピーチ

このたび、「福岡アジア文化賞」を授与されましたこと、身にあまる光栄です。特に「アジア」を冠する賞をいただきましたことは、過去30年にわたってアジアの村や町を研究の場としてきました私にとりましてなによりもうれしいことであります。
私が、アジアの農村と本格的に取り組むようになりましたのは、今から30年近く前になりますが、1974年にフィリピンの国際稲研究所(IRRI)に研究員として赴任してからです。赴任してからすぐ始めたのが、農家経済調査(farm record keeping)、つまり農家に農業生産と家計の諸活動を記録してもらい、その資料に基づいて農村の実態を把握しようとする研究です。

この研究のため、フィリピン第一の湖であるラグナ湖のほとりの一農村を選び、そこに2年間通いつめました。そこで見たのは、途上国の農民に対する既存のイメージを打ちやぶるものでした。先進国の人間は、途上国の農民といえば、迷信や慣習にとらわれ、合理的な思考に欠け、新しい技術を取り入れようとしない。また、怠け者でヤシの木陰で昼寝ばかりしているなどと想像しがちです。

しかし実際に私が見たのは、農民たちは貧しいなりに新品種や化学肥料などの近代的投入を取り入れ、きわめて合理的な経済計算の下に生活を維持、向上させようとしている姿でした。だが、彼らの合理的な努力にもかかわらず、農民たちは大変貧しい。なぜかといえば、一方では人々が急激に増え、一人当たりの耕地がどんどん減っていきます。他方、個々の農民の努力を生かすために必要な灌漑(かんがい)や道路などの基盤は乏しく、農地制度や金融組織、税制など国家の仕組みの多くが貧しい農民や中小の商工業者を助けるどころか彼らの発展を阻害するように働いているからです。

個々の村人の私利追求活動と、村社会での協力と、国家の支援とをどう組み合わせて貧しさからの脱出を図るべきか。この問題を考えあぐねるうちに経済発展における市場、共同体、国家という三つの組織の役割はどうあるべきかという終生の研究テーマが形成されたのです。それからの私はアジアの各地で、あるいはジャワの棚田で雨に濡れながら、あるいはデカン高原で灼熱の太陽に焼かれながら、考え続けてまいりました。

こうして、私の研究はアジアの村々、町々で出会った多くの人々によってはぐくまれ、育てられてきました。いま受賞の栄に浴するにあたり、これらの方々に対し深い感謝をささげたいと思います。

ありがとうございました。

芸術・文化賞受賞者によるスピーチ

 自分の愛情を目に見える形で表現することが私の仕事です。正しい心で、自分のもちうる知識を駆使し、仏教哲学の中にある真実をしっかり見つめ、全身全霊をかけて、作品に向かいます。私は自分の夢に気持ちを集中させることで、つくった作品が純粋で、透明で、美しい光を放ち、ジャスミンの甘い香りが宇宙にひろがるように仕上がっていくのです。

作品に接しているときはいつも、御仏に抱かれた霧にけむる寺院で、御仏のすぐ近くにいるような至福の喜びと満ち足りた気持ちを覚えます。虹が美しい色を放つように、そして色とりどりの花でつくった花輪の美しい色がかもし出すように、私は自分の作品を通して御仏に触れるのです。

御仏は愛情にあふれた陽の光で私を包み、そして自由の灯をともしてくれます。美や真実を求める私の気持ちに、美的感覚や哲学が融合し、何か美しい物をつくりたい、そしてつくれたとき、私はたとえようのない心の平和と幸福で満たされるのです。    
作品をつくってきたこれまでの私の人生は、いつも報酬を得るという形で報われてきました。このことをうれしく思い、感激の気持ちでいっぱいです。そして、今は、愛情という究極の価値を皆様にわかってもらいたいと思っているところです。  

皆様からのこの栄誉ある賞は私に大きな喜びをくれました。私は言葉に表せないほどの大きな創作の喜びの流れに飛び込み、天の川に輝く星の一つになったような気持ちです。
私に愛情を示していただき、私を理解していただき、そして私を認めていただいたことに感謝します。この賞がきっと東洋の文明、芸術、文化の時代を固くつなぐものになると思います。そして、世界中の友情、美、平和を求める知恵の炎となってこの先ずっと燃え続けることでしょう。

最後に、皆様は、私が完璧な人間ではないことをご存じですが、そんな私にこれほどの愛情を注ぎこの場に立たせてくださいました。

ありがとうございました。

芸術・文化賞受賞者によるスピーチ

福岡の皆様と福岡市からこの賞をいただき大変光栄です。この栄誉は私一人だけでなく、私の国に対して授与されたものだと考えます。フィリピンは、アジアの中でも、とりわけ文化の多様性に富むという特徴をもっています。それは東洋と西洋の影響が融合する中から生まれたもの、古来から保有してきたもの、そして植民地時代から受け継いできたものです。21世紀、フィリピンが自らの文化を見つめ続けていく中で、この文化の発展を最もよく、そして最も国民に支持される形で表現できるものこそがビジュアルアートや映画であると思います。

7,000を超える島に、80もの異なる言葉を話す人々が暮らすフィリピンのような国では、国全体としてのまとまりや平和、繁栄などが、国民の目に写りにくいものです。リージョナリズム、つまり地域主義がフィリピン全体の文化の発展を妨げてきたと言われていますが、人々が(我々が)最も好む娯楽であり、文化交流の手段であるフィリピン生まれの映画は、フィリピノ語が、フィリピンの国の言葉として、そして共通語として発達するためになくてはならないものだったのです。映画の中で語られる言葉を通して、我々のもつ様々な文化が意義のある方向に向かって融合されることが望まれます。

フィリピンが今日抱える大きな問題の一つに、フィリピン南部のミンダナオ島で何世紀も続くキリスト教徒とイスラム教徒との対立があります。イスラム教徒は独自の宗教や文化を盾に民族自決権を主張しています。国民の90パーセント以上がカトリック教徒であるフィリピンでは、少数派に属するイスラム教徒は社会的に不当な扱いを受けやすい立場にあるのです。過去600年間、何十万という兵士、反対派、キリスト教徒、イスラム教徒、そしてフィリピンに古くから住んできた人々がこの独立を求める戦いの犠牲になってきました。なによりも危惧されるのは、人の命だけでなく、先史時代から受け継いできたフィリピンの貴重な遺産までもが戦争の犠牲になったということです。ですから、この戦いを平和に、そして永遠に解決することがぜひとも必要なのです。

私は、フィリピンのイスラム教徒とキリスト教徒が真に歩み寄るための第一歩は、お互いの文化の価値を認めあうことだと信じます。ですから今回、ミンダナオ島での戦争を、新しい映画のテーマに選びました。映画を通して、文化というものがフィリピンだけでなく、世界中の平和を求める対話に欠かせない役割を担っていることを表現したいのです。

先端技術とグローバリゼーションの時代にあって、人々の心は今まで以上に自分の文化のルーツに心の安らぎを求め、愛着を感じています。ここ福岡には、21世紀を生きていくための素晴らしい環境があります。福岡は国際貿易が活発な港がある街というだけではなく、アジアの文化と芸術の聖域でもあるのです。毎年9月に開催されるアジア・マンスがまさしくそれです。特にアジアフォーカス・福岡映画祭は、私にアジアの文化がもつ多様性の素晴らしさをより深く理解する機会を与えてくれました。  

映画製作にかかわる一人として、今回、フィリピン人の魂を大きなスクリーンで表現したいという新しいインスピレーションを与えていただいたことに感謝します。そして、フィリピン映画がアジアに生きるすべての人々の発展に大きく貢献できるよう心から願っています。  

フィリピンには「マブハイ」、「幸多かれ」という意味の言葉があります。ここに私とともに賞を受けたムハマド・ユヌス氏、速水佑次郎氏、タワン・ダッチャニー氏、そして福岡、アジアのすべての人々に心を込めて「マブハイ」の言葉を贈ります。

2001年(第12回)福岡アジア文化賞祝賀会

開催日時
2001年9月13日(木)/18:00~19:30
会場
ホテルニューオータニ博多「芙蓉の間」

祝賀会は、受賞者御夫妻及び同行者をお迎えして、約250名の参加により行われた。

主催者を代表して川合辰雄財団法人よかトピア記念国際財団理事長の挨拶が行われ、来賓を代表してサクティップ・グライルーク在日タイ大使により乾杯の発声が行われた。

会場では交歓の輪が広がり、受賞者と出席者はもちろんのこと、各界から集まった出席者同士もお互いの親睦を深める良い機会となり、終始和やかな雰囲気であった。

福岡アジア文化賞年次報告書ダウンロード

福岡アジア文化賞授賞式の様子や各種イベントのレポートを含めた2001年度の事業報告書を、PDF形式でダウンロードいただけます。

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各種イベントレポート

2001年度の授賞式以外のイベントレポートをご覧いただけます。