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2002年市民フォーラムレポート

2002年大賞受賞/張 芸 謀(チャン・イーモウ)

タイトル
張芸謀が描く民衆の生命と希望
開催日時
9月20日(金)18:00~20:00
会場
アクロス福岡イベントホール
コーディネーター
佐藤 忠男(映画評論家)

アジアを代表する映画監督であり、世界の映画界の巨匠である張 芸 謀(チャン・イーモウ)による市民フォーラムが9月20日、アクロス福岡で行われた。

トークセッション

張氏とは長年の知り合いである佐藤氏のリードで、トークは和やかに進められた。張氏は北京電影学院での入学や卒業をめぐるエピソード、文化大革命終結後の学生たちの映画に対する情熱、意に反して地方の映画製作所に配属されたときの思い、役者を演じたときの心境などを切々と語った。

作品については、「人と違うものを撮ってやろう」という思いが、撮影を担当した初期作品の独創的なカメラワークに潜んでいることや、初の監督作品『紅いコーリャン』に込められた自分自身の叫びなどを自ら告白。常に新しいスタイルで映画を制作し続けているとの評価に対しては、「新しいことへの挑戦が新鮮な生命力を与えてくれる」と、映画製作に対する自分自身の姿勢を語った。また、最新作の『英雄』について「初のアクション映画で、今までにない自信作である」と紹介すると、会場からは期待を込めた大きな拍手が起こった。

最後に、初めて訪れた福岡に好感を持ったことや、福岡市民へアジアに目を向けた意義深い福岡アジア文化賞を誇りにしてほしいとメッセージをいただき、セミナーの幕を閉じた。

2002年学術研究賞受賞/キングスレー・ムトゥムニ・デ・シルワ

タイトル
スリランカ、停戦から恒久的な和平へ
開催日時
9月22日(日)12:30~15:00
会場
アクロス福岡イベントホール
パネリスト
今川 幸雄(関東学園大学法学部教授)
コーディネーター
中村 尚司(龍谷大学社会科学研究所教授)

南アジアを代表する歴史学者キングスレー・ムトゥムニ・デ・シルワ氏による市民フォーラムが9月22日、アクロス福岡で行われた。

第1部:基調講演

スリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎(LTTE)の間で1回目の事前和平協議が行われたのと時を同じくして開かれたこのフォーラム。基調講演においてデ・シルワ氏は、スリランカで二十余年にわたって続いている民族抗争の経緯と、決裂に終わった過去2度の和平交渉の内容を説明し、停戦を持続可能な和平に移行させるには何が重要かを説いた。続いて今川氏が、スリランカと共通点の多いカンボジアにおける紛争と和平について講演し、紛争の特色、和平への過程と成功に至った理由などを紹介した。

第2部:パネル・ディスカッション

パネルディスカッションでは、デ・シルワ氏がカンボジアとスリランカの紛争の共通点と相違点を分析した。また、スリランカの和平に対して外国人の果たす役割、私たち日本人に何ができるのか、といったことが議論された。

最後に中村氏が、今回のフォーラムをスリランカの問題を考える出発点であると位置づけ、締めくくりの言葉とした。

2002年学術研究賞受賞/アンソニー・リード

タイトル
「交易の時代」の人々〜食事・結婚・遊びから〜
開催日時
9月20日(金)14:00~16:30
会場
アクロス福岡イベントホール
パネリスト
石井 米雄(神田外語大学学長)
パネリスト
濱下 武志(京都大学東南アジア研究センター教授)
コーディネーター
石澤 良昭(上智大学アジア文化研究所教授)

東南アジア史研究においてこれまで評価されてこなかった風土や人口と民衆の日常生活の活力ある諸相、たとえば食事・結婚・儀礼・女性・娯楽などを初めて研究対象として体系的にとりあげ、新しい地域史を創りあげた東南アジア史研究を先導する歴史学者のアンソニー・リード氏による市民フォーラムが9月20日、アクロス福岡で行われた。

第1部:基調講演

リード氏は基調講演において、「交易の時代」の東南アジアにおける文化・宗教や、その後、交易の衰退とともに変化していく様を、グローバリゼーションとローカリゼーションの相互作用が働いたと読みとれるリズムがあったと説いた。さらに自身の著書に対する批判をも紹介し、それに答えるなかで持論をいっそう深めていった。

第2部:パネル・ディスカッション

パネルディスカッションでは、まず石井氏が「交易の時代」の第二期に関して「東南アジアとスリランカの関係」と「タイにおける宗教の合理化」の問題を提起。続いて濱下氏が「南シナ海を中心とする貿易」と「イスラムを例にした宗教の伝繙」を取り上げた。それを受けてリード氏は、「交易の時代」にはさまざまな世界間の相互作用が存在したことを強調した。さらに議論は、共通の言語や契約書の有無といった交易の具体論や、結婚や葬儀の事例などへと展開した。

最後に石澤氏が、リード氏の主著である『大航海時代の東南アジア』第1、2巻が、東南アジア史にとって大きな意味を持つものであると高く評価し、第3巻出版への期待を述べてフォーラムを締めくくった。

2002年芸術・文化賞受賞/ラット

タイトル
ラットさんのアジア今昔物語
開催日時
9月22日(日)15:30~17:30
会場
イムズホール
対談者
サトウ サンペイ(マンガ家)
コーディネーター
安永 幸一(福岡アジア美術館館長)

アジアを代表するマンガ家のラット氏による市民フォーラムが9月22日、イムズホールで行われた。

まずサトウサンペイ氏が「ラット氏との出会い」について講演し、1990年にラット氏が主導した世界のマンガ家が集うイベントでマレーシアに招待されたときの驚きと感動や、ラット氏の人柄などを紹介した。

第1部:基調講演

福岡の皆さまにお目にかかることができて嬉しく思います。本日のテーマの「アジア今昔物語」は、時の移り変わりを意味します。ボブ・ディランの歌にあるように、時はジェット機のような速さで過ぎていきます。この時の流れの速さについて、私は常に子どもたちや若者に言い聞かせています。「気がつくとすでに時は過ぎ去ってしまっている。夢があるのならよく考え、それを素早く実行に移すことだ」と。

私は長い間マンガを描いてきました。ペナンのマンガ出版社が私の初のコミックブックを出版したのは13歳の時でした。後ほど私のマンガを数点ご紹介しますが、まずその前にサトウサンペイさんについてお話したいと思います。

私の初来日は1981年、30歳の時です。第一印象の重要性や影響力の深さについてよく言われるように、私も初めて訪問した日本から非常に大きな影響を受けました。行く先々での発見に、目が覚める思いでした。レストランではウェイターやウェイトレスが走り回っていました。マレーシアのレストランでは、ウェイターのサービスを受けられないことが多々あります。私がこれまで訪問したアメリカ・ヨーロッパ・インド・日本などの国々と比較しても、マレーシアはややペースが遅い気がします。

サトウサンペイさんには、1984年の2度目の来日のとき、広島で行われた会議で初めてお目にかかりました。その会議では幸運にも、手塚治虫さんや馬場のぼるさん、フィリピン、韓国、中国、タイなど各国から参加している大勢のマンガ家の方々にもお目にかかることができました。会議に端を発した我々の交流はその後も長い間続き、1990年にはサトウサンペイさんはじめ他国のマンガ家とマレーシアで再会することになりました。マレーシア政府の招聘による『1990年マレーシア訪問年記念国際漫画家会議』にご出席いただいたのです。私はそのオーガナイザーを務めました。

その訪問を題材に描いたものをご紹介しましょう。この絵は各国のマンガ家を描いたもので、先頭にいるのが私です。まだ若い頃で髪もふさふさしています。サトウサンペイさんもいます。我々グループは国内各地を訪問しましたが、皆でマレーシアの当時の姿について見聞を深めるのは大変楽しい経験でした。ただし一般観光客とは異なり、マンガ家集団の指揮接遇は容易ではありません。マンガ家は各々の視点をもった芸術家で、大変気まぐれな人種だからです。私はこれまで温厚なマンガ家に出会ったことがありません。唯一温厚なマンガ家といえば、心の広いこの私ということになるでしょうか。マンガ家の多くは非常に気難しく、心は常に不満や疑問に満ちています。たとえば400年もの歴史を有する重要建造物にご案内した際も、「見物なんてしたくない。ホテルに戻りたい」と言ったりします。各国のマンガ家が皆一様に気難しいのは、いつも締め切りに追われ、ぎりぎりの状況で仕事をしているからです。

私は、サトウサンペイさんが自宅にオフィスを持ち、朝日新聞にマンガを描いているとお聞きしました。日々、翌日の新聞に載せるマンガを描き、それが午後の配達専用バイク便で新聞社に届けられるのですが、サトウサンペイさんもやはり、バイクが到着しても原稿は依然白紙状態だったそうです。マンガ家の仕事というのはこんなものです。常にぎりぎりの状況でアイデアを絞るわけですから、表情は必然的に気難しくなります。私の家族も、午後私が気難しい顔をしていると、翌日のマンガのアイデアを練っているのだとわかるようです。サトウサンペイさんから、日本のマンガ家の多くがフリーであると聞いて、1974年には私も新聞社を退社し、マンガ家として独立しました。言ってみれば、日本のやり方をまねしたのです。

これは、私が手がけた本のひとつ『カンポンボーイ』の表紙です。私の故郷を題材にした本で、1993年に出版されました。私の故郷はカンポン、すなわち村です。カンポンの片鱗もない大都市のクアラルンプールに住んだこともありますが、私はマレーシアの若者や自分の子どもたちに、自分たちの故郷について伝えたいと思っていました。父母や祖先の故郷はどんなところだったか、どんな家に住んでいたのか、といったことです。私が子どものころは、広い空間を享受できました。それは、クアラルンプールの狭い家で小さな居間に家族がひしめきあっている現代の生活とは全く違います。私が生まれ育ったのは、木立に囲まれた木造家屋です。家は高床式になっていて、私がよく遊んだ台所は地面と同じ一階にあり、薪が置いてあります。水は井戸からバケツにくんで家に運びます。井戸の生活を知らない私の子どもたちは、無邪気に「昔の映画のようだ」などと言っています。

マレーシアの伝統や習慣についても、この本で紹介しています。この絵は、伝統的なマレーの割礼儀式であるベルスナットを描いたものです。8~9歳になる少年が、村の伝統医の手で割礼を受けるというものです。私もこの儀式を受けました。儀式前には川で身を清めなければなりません。我々は服を脱ぎ、村中の人々に伴われ、太鼓やコーランの中を川へ向かいました。川の水に身を浸すわけですが、その冷たさに全身が縮こまった感じでした。

スバンジャヤに住んでいたころは、よく子どもたちを公設プールに連れて行きました。現代の子どもには全くプライバシーがありません。これは『カンポンボーイ~イエスタデイ・アンド・トゥデイ』の絵ですが、今昔物語でいう今を描いたもので、親が公設プールに子どもを連れて行くという題材です。プール指導員や監視員や両親やメイドが見守る中、男の子が泳いでいます。多くの目が小さな子に注がれ、皆で泳ぎを教えようとしています。我々はそれほどまで過度に慎重になっています。

私の幼少時代には、父はこの絵のやり方で泳ぎを教えてくれました。溺れそうになりながら水の中でもがいて覚えました。もちろんそんなに深くない所で、何かあれば父はすぐに飛び込んで助けてくれました。これがカンポンでのやり方でした。1950年代当時は水も大変きれいでしたが、残念なことに近年では水質汚染のため泳げなくなりました。

遊びの道具も自分たちで作りました。これは竹で作った紙鉄砲ですが、日本と同様、マレーシアでも竹を使って様々に遊びました。子どもたちには季節ごとの遊びがあり、竹の季節には竹の鉄砲を作り、水で浸した紙を弾丸にして遊びました。

コマ回しもしました。コマやその他のおもちゃは、すべて自分たちで作りました。コマはグァバなどの木の枝で作って鉄製のくぎを付けるのですが、現在では鉄くぎでけがをすると危ないということで、遊ばれなくなってしまいました。

『タウンボーイ』という本は、私の家族が1963年に村からイポーという町に引越した後の経験に基づいて描いたもので、マレー系マレーシア人と中国系マレーシア人の二人の男の子の友情を題材にしています。私はフランキーという中国系マレーシア人と音楽を通じて友達になりました。ある日フランキーが「レコードを聞きに来ないか」と誘ってくれたので、二人で自転車に乗って町の中心部にある彼の家に行きました。絵は、私の記憶だけを頼りに描きました。フランキーの家では、一緒にロックンロールなどの音楽を聞きました。この絵は典型的な中国人住居を描いたもので、居間は父・祖父・姉妹など家族全員の写真であふれています。彼の家の一階にはコーヒーショップがあり、別世帯であるそこを通って上の階に上がるのは容易ではありませんでした。

私は12~13歳のころからマンガを描き、娯楽雑誌や映画雑誌に投稿するようになりました。シンガポールの映画雑誌にマンガが掲載されると、謝礼として映画チケットが送られてきたので、父と映画に行きました。

これは、13歳のときに出版された私の最初のコミックブックです。タイトルは3人の友達という意味の『ティガ・スカワン』で、3人グループが泥棒を捕まえるという内容です。作者の欄には、「イポーのラット」と書いてあります。これは最後の2ページで、右下には私の本名と当時のイポーの住所が番地まで書いてあります。私はクアラルンプールではなくイポーという小さな街に住んでいることを大変誇りに思い、それを誇示したかったのです。初のコミックブック出版で25リンギット(*)を手にしました。母と弟を伴って出版社の支社で小切手をもらい、銀行で換金したことを覚えています。換金後、手元に15リンギットを残して10リンギットを母に渡し、自分たちは町に残るから先に帰るよう促しました。その後私たちは、ビートルズのレコードを買ったり映画を見たりして過ごしました。

その後もマンガを描き続け、13歳から17歳まで多くのコミックブックが出版されました。これらのマンガの多くは新聞や雑誌にも掲載されました。そして17歳の時に初めて連載を手がけ、私は10代にして公務員給与と同等の100~120リンギットの月収をもらうようになりました。もちろん学生だったので、収入は堅実に毎月両親に渡しました。当時の私はマンガを描くことに夢中であまり勉強をしませんでしたが、マンガが得意であるという強みがあって成績が悪くても学校から注意されることはありませんでした。学校での好きな科目は美術・英語・マレー語で、将来は美術関係の仕事をするつもりでした。当時のマレーシアにはマンガ家という概念は存在せず、それを職業にするなど全くあり得ない話でした。アーティスト、新聞イラストレーター、美術分野のイラストレーター、レイアウト・アーティストなどは存在しましたが、マンガ家という職種はありませんでした。私がマレーシア初だと思います。

クアラルンプールのニュー・ストレイツ・タイムズ紙に記者として4年ほど勤務した後、1974年にマンガ家として独立しましたが、それもまた前例のないことでした。

これはドリアンの季節に描いたもので、ニュー・ストレイツ・タイムズ紙の社説欄に掲載されました。ドリアンは独特の外見から「外は地獄、中は天国」と形容される、トゲに覆われた果物です。外国の方には苦手だとおっしゃる方も多いようですが、マレーシア人にとっては天国の果物であり、好んで食べます。

この絵はカメが人間の分娩室に見物に来たという題材で描きました。マレーシアではカメの産卵を見物することができますが、これは立場を変え、カメが人間の出産を見物に来たという設定です。

また、ペナンの州議会場の中にいる議員が道化師のように議論しているという設定で、会場の外にいる警備員の様子を描いた絵もあります。

これは自動車学校の実技試験の様子です。マレーシアでは、こうして道路の左側道を走っても警官に捕まらなければよいとする風潮があります。

この絵は海外事情を扱ったものです。バンコク市長が汚職事件を呪いで解決しようとしているという題材です。あまりにも汚職事件がはびこり、市長はとうとう伝統的な解決策を講じ、収賄容疑者に呪いをかけているのです。この絵の意味は、近代社会がいかに発展してもこのような習慣や伝統がアジアにはあるのだということです。今の現実社会では呪いの効用など誰も信じていませんが、我々の中には今でも迷信などの古いアジア的な考えが色濃く残っていると思います。

こちらは学校の新学期が始まった時の様子です。休み中テレビにくぎ付けになった子供たちを学校に向かわせるのは至難のわざで、テレビごと連れて行こうとしています。

これはサッカー熱が高まっていた時の絵で、昔の伝統と現代を掛け合わせたものです。カンポンでも皆一様にテレビ観戦する傍ら、伝統はそのままに、女性は敷物を織り、女の子は竹ボールを作っています。

今、社会は困難な時代を迎え、どこへ行くにもセキュリティチェックがあります。この絵は、洞窟に入ろうとする彼らにもセキュリティチェックが課されているという設定です。この絵はアメリカでも掲載されました。

これらは、1981年の初来日の様子を描いた絵です。これらのマンガは日本調にしてあります。マレーシアで知り合いになった二人の友人が出迎えてくれたので、レストランに案内してもらって初めて刺身を食べました。生まれて初めて早足のウェイターに会い、音をたててうどんやそばを食べてもいいと知ったのも、初来日の時でした。

この絵は電車の通勤風景を描写したものです。日本の友人の家にも招待されましたが、ご家族が初めて目にするマレーシア人がマンガ家の私だったというのは、不幸なことでした。これは私が畳の上で寝ているところです。1981年の初来日を皮切りに、これまで21年間25回にわたって日本を訪問しました。

この絵は、『今昔物語』というテーマに基づいて最近仕上げたものです。日本人もそうだと思うのですが、ジャワやスマトラやマレー半島など、我々の起源は農村にあります。だから私は、このようなマンガを通じ、若者に我々の起源を教えたいと思います。己の起源を認識し自覚すれば、必然的に横柄さも消えると思うのです。我々は皆が大都市の大病院で生まれたわけではありません。そもそも病院が故郷であり得るわけがないのです。私の幼少時代は、どんなに小さな家でもみすぼらしい家でも、出産は家で行われました。今日ではゴルフが大変盛んです。私自身はゴルフをしませんが、イポーの私の家からもプレーヤーの声が聞こえてきそうなほどの至近距離にゴルフコースがあります。

私が生まれ育った家はこんな感じですが、今では高床式の木造家屋を建てる土地も減り、昔ながらの家は消滅しつつあります。町は一様にコンクリートジャングルになろうとしています。そういったなつかしさで、マレーシア伝統建築を見物に来られる日本の観光客も多いのだと思います。

これは2日前に福岡のホテルで描いた絵です。小泉首相が北朝鮮での会合を終えて日本に戻ったという設定ですが、米国のブッシュ大統領が後ろの草むら(ブッシュ)で様子を伺っています。米国は北朝鮮との国交がないので、会合の結果に大きな関心を示しているというものです。小泉首相はハンサムで髪型も特徴的なので、描きやすい題材だといえます。お父さんのブッシュ前大統領はモデルとしては描きやすかったのですが、息子さんの方は容易ではありません。

新聞の連載マンガ家として活動を始めた17歳当時、私は親戚や地元の注目を浴び、国内で有名になってしまいました。長年に渡ってマンガを描き続け、気付いたら50代の今日を迎えていました。私たちマレー系の社会では、50歳を越えると高齢者だとみなされます。そのため故郷の親戚などは、私が政府・国王から拝受した称号『ダト』で呼びかけ、「今どんな大きな仕事を手がけているのか。ベンツを持っているか」などと聞いてきます。私の答えはこうです。「ベンツもなければ、大きな仕事もしていない。ただマンガを描いているだけだ」。それを聞くと村の親戚は「そんな高齢になってもまだマンガを描いているのか」と心配してくれます。

私は、マンガを描くことは高潔な仕事だと強く感じています。マンガを描き、コメントを入れる作業の中で大切なことは、「肯定的なものの見方」です。どんな表現であっても、肯定的な意図に裏付けされていなければいけません。私は、マンガで個人を陥れることも持ち上げることもありません。政治家に対しても同様です。根底にあるのは、楽しさを提供することであり、笑いやユーモアを分かち合うことです。私はこれまで、否定的な見方でマンガを描いたことはありません。おそらくそれが、長年に渡ってマンガを描き続けることができたゆえんではないでしょうか。

社会人の立場としてはマンガ家として生計を立てていかなければなりませんが、私にとってより大切なのは、家族や地域との関係です。それが、仕事としてのマンガより重要だと思っています。しかし、私のマンガは、世界各地へ発信されます。マンガを通じて、世界各地でいろいろな方にお会いしました。それが私のマンガという仕事の醍醐味です。

第2部:トークセッション

続いて安永氏の進行で、サトウ氏とプロのマンガ家になったきっかけや連載を続けていく上での苦労話など、次々と興味深い話題が繰り広げられた。最後に一枚の紙にそれぞれの人気キャラクターを描いて見せると、会場からは大きな拍手が沸き起こった。

終了後も、サインや握手を求める人々と気さくに言葉を交わすラット氏の姿が見られた。

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福岡アジア文化賞授賞式の様子や各種イベントのレポートを含めた2002年度の事業報告書を、PDF形式でダウンロードいただけます。

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各種イベントレポート

2002年度の市民フォーラム以外のイベントレポートをご覧いただけます。