贈賞理由

パースック・ポンパイチット氏とクリス・ベーカー氏は、1980年代から急速に経済発展してきたタイの社会変動を、東洋と西洋の知性の協働、社会科学と人文科学の融合、男女の感性の共鳴をとおして複眼的で総合的な視点から分析し、様々な境界を自在に超えて学術研究の対象と方法に新たな展開と深化をもたらしてきた。共著書は10冊を超え、国際的に活躍する知識人である。

パースック氏とベーカー氏の功績は数多くあるが、最大の貢献は、現代タイ社会が直面する数々の問題を、政治と経済を中心に、社会や文化、人々の価値意識にまで広げて、多面的かつ総合的に捉えようとした点である。例えば、1990年代前半の経済のバブル化を扱った『Thailand’s Boom!
(タイのバブル)』(1996年)は、政治と経済の動きだけでなく、株や土地の投機に狂奔する人々や、新しい消費文化や若者の流行も取り上げ、当時のタイ社会の実態を生き生きと描いた。そして、1997年のアジア通貨危機でタイ経済のバブルが崩壊するや、直ちに『Thailand’s Boom and Bust(タイのバブルと破綻)』(1998年)を刊行して、バブル崩壊の過程を克明に描き、2000年には、『Thailand’s Crisis(タイの危機)』を上梓して、いち早くタイ経済危機の背景を分析し、進行中の経済改革の内容を紹介した。

パースック氏はケンブリッジ大学で経済学を学び、現代タイ経済の実証分析を1980年代から始めた。一方、ベーカー氏はケンブリッジ大学でインド亜大陸の歴史に取り組む気鋭の研究者だった。その後、パースック氏の帰国が決まると、ベーカー氏は大学の教職を辞し、彼女と共にバンコクに移り住む。以後、経済問題はパースック氏、芸能や文化はベーカー氏、政治問題は両者でといった、絶妙の分業と協力の関係を育んだ。政治と経済、社会と文化を有機的な全体として捉える複眼的な分析は、パースック氏とベーカー氏の編み出した学際的でユニークな手法である。タイの現代政治をビジネスの観点から分析した『Thaksin(タクシン)』(2004年)も、こうした協働作業によって生まれた傑作である。

パースック氏とベーカー氏はそのほかにも現代タイ社会に関する優れた著作を多数発表している。都市中間層、インフォーマルセクター、通貨危機後のタイ人資本家、経済的不平等の拡大、環境と社会運動などがテーマであり、いずれも鋭い問題意識と豊富な実証データに支えられた、現代のタイを理解するための好著である。

パースック氏とベーカー氏の協働作業で忘れてはならない業績は、新しい時代の教科書を意識して書かれた『A History of Thailand(タイの歴史)』(2005年)と、19世紀半ばから現在に至るタイの経済と政治を俯瞰した『Thailand: Economy and Politics(タイ:経済と政治)』(1995年。邦訳『タイ国 -近現代の経済と政治-』[2006年])の2冊であろう。この2冊は、タイ研究者のみならず、東南アジアを研究する者にとっても、必読の文献となっている。

さらにもうひとつの偉大な業績は、タイでもっとも親しまれている長編叙事詩『The Tale of Khun Chang Khun Phaen(クンチャーン・クンペーン物語)』の韻文からの英訳である。この叙事詩の成立は遅くとも1840年代で、ラーマ2世王やタイの詩聖と呼ばれるスントーン・プーも参加した。ラーマ5世王の時代以前に使用されていた古語で書かれているだけでなく、古来インドなどの影響を受けてきた宮廷と庶民双方の生活や慣習、文化についての該博な歴史知識がない限り、英語への全訳は相当に難しいと言われてきた。それを成し遂げることができたのは、若い頃にインド史の専門であったベーカー氏の教養と、パースック氏・ベーカー氏のタイ社会に関する博識によるところが大である。

両氏の共同研究は傑出しており、タイの代表的知識人として多大の社会的貢献をしてきたパースック・ポンパイチット氏とクリス・ベーカー氏は、まさに「福岡アジア文化賞 大賞」にふさわしい。

ロンドンのバダパディパ寺院にて結婚式(1979年)
パースック氏、コロンボ・プラン奨学金でオーストラリアへ出発(1972年、バンコク空港にて)
スコットランドにて、家族とともに(2014年)

パースック・ポンパイチット氏 および クリス・ベーカー氏からのビデオメッセージ