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【開催レポート】福岡アジア文化賞歴代受賞者およびラモン・マグサイサイ賞受賞者による講演会

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2018年3月3日(土)、福岡市役所本庁舎15階講堂にて、「福岡アジア文化賞歴代受賞者およびラモン・マグサイサイ賞受賞者による講演会」と題して講演会が開催されました。

福岡在住のカンボジア人の皆様を含む市民約150名が参加し、カンボジア研究の巨匠アン・チュリアン氏 、石澤 良昭氏の話に耳を傾けていました。

  • 日時/2018年3月3日(土)13:00~15:00
  • 会場/福岡市役所本庁舎 15階講堂
  • 基調講演1/ラモン・マグサイサイ賞受賞記念「民族栄光の象徴アンコール・ワット‐文化遺産に込められた精神的支柱‐」石澤 良昭氏
  • 基調講演2/第22回福岡アジア文化賞大賞受賞「死者の神、生者の神‐カンボジア宗教史における神"ヤマ(閻魔)”信仰と儀式‐」アン・チュリアン氏
  • 対談/アン・チュリアン氏×石澤 良昭氏「福岡アジア文化賞の価値」

 

基調講演1/ラモン・マグサイサイ賞受賞記念「民族栄光の象徴アンコール・ワット‐文化遺産に込められた精神的支柱‐」石澤 良昭氏

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初めてカンボジアを訪れたのは1961年。その後、カンボジアでは内戦が起こり、長らく現地を訪れることができませんでした。まだ内戦の続く1980年に再びカンボジアに入ると、以前一緒に働いていたカンボジア人のメンバー40数名のうち、戻ってこられたのは3名しかいませんでした。内戦によって、アンコール・ワットは大きなダメージを受けていました。それまで70年間遺跡の保存を続けてきた学院もなくなってしまいました。

私を含めた4名で、アンコール・ワットの修復プロジェクトが始まりました。何故アンコール・ワットなのか。それは、カンボジアの人々にとって心のふるさとだからです。たくさんの精霊が住み、お参りをすると病気を治せるとも言われています。

アンコール・ワット建設当時、文章はヤシの葉に書かれ、長期保存ができませんでした。そのため、だれが何のためにアンコール・ワットを作ったのかという書き物としての記録は残っていません。しかし、アンコール・ワットには様々なレリーフが掘られています。レリーフから、当時の人々が残したメッセージを読み解いていくことができます。

anishi5.jpgマハーバーラタやラーマーヤナのレリーフはアンコール・ワットの西側に作られていました。当時は照明がなかったので、レリーフが西日に映えるように工夫されていたのです。16世紀に宣教師がカンボジアに入り、自国に書き送った手紙の中に、アンコール・ワットの一部で黄金が輝いていたという記録があり、かつては黄金に覆われていたということがわかります。1632年には日本から森本右近太夫らが訪問。世界で初めてアンコール・ワットの絵図面を作りました。

1992年にアンコール・ワットが世界遺産に登録され、アン・チュリアン先生が遺跡文化局長に就任されました。内戦後の混乱の中で頑張っていたカンボジアの人々にとって、世界遺産登録は大きな希望になりました。

修復が長年フランスなど外国人の手にゆだねられてきた中で、我々は「カンボジア人によるカンボジア人のためのアンコール・ワット修復」を大切にしてきました。そのことが、カンボジアの人々が自国の文化に誇りをもつこと、民族和解と文化的アイデンティティの再確立につながると考えたからです。

1991年からはアンコール・ワット北東にあるアンコール遺跡バンテアイ・クデイでカンボジア人学生たちによる現場実習が始まりました。2001年にはバンテアイ・クデイ遺跡から274体の仏像がカンボジアの人たちの手によって発掘され、全世界に報道されました。これらの仏像を展示するため、2007年に日本企業によって博物館が作られ、カンボジア王国に寄贈されました。

1993年から始まったアンコール・ワットの西参道修復プロジェクトでは、日本から石工の職人をお招きして、石工の養成活動も行いました。その様子はテレビ番組で特集され、日本でも話題となりました。竣工まで12年かかり、2007年に西参道の前半100mが完成。完成式では地域住民による渡り初めを行いました。そして、2016年に後半100mの起工式が行われました。

遺跡の保存・修復と並行して、数々のプロジェクトを行ってきました。カンボジアでは、内戦により多くの大学の先生が亡くなり、1989年にカンボジアで大学が再開されてもカリキュラムが空白のままでした。そのため、夏休みなど長い休みのときには、日本の大学の先生をカンボジアにお招きして、専門的な授業を行ってもらいました。また、アンコール・ワットにごみが多いことから、周囲の小中学校を回りごみ箱を設置し、ごみゼロ運動を展開しました。

現在、カンボジアではヘリテージ・エデュケーション=文化遺産教育が進められています。2011年にはバンテアイ・クデイ遺跡敷地内に「上智大学アンコール文化遺産教育センター」が開設されました。センターでは、その日に発掘されたものを広場に持ってきて村人たちに「祖先が作った文化遺産なんだ」ということを知ってもらったり、近くの小学生に、カンボジア人の大学院生が遺跡の説明をするといった活動が行われています。

これらの活動から、2017年にラモン・マグサイサイ賞をいただき、フィリピンでの授賞式に参加しました。受賞理由には、「遺跡の保存修復はカンボジア人の手でなされるべきと、遺跡の保存官や石工の養成に尽力した。これまでの無私の取り組みによってカンボジアの人々が自国文化への誇りを取り戻し、遺跡保存の重要性が世界へ発信された」とあります。

遺跡の保存・修復を進めるためには、その目的をしっかりと伝えることが大切です。そこで、アンコール遺跡の面白さ、現在の問題等をカンボジアの皆さんに紹介してきました。バライと呼ばれる伝統的な貯水池の重要性について解説したり、アンコール遺跡建設当時の技術で石積みや石の運搬を行う実験をしたりして、当時の人々の建設技術の高さを共有しました。

現在、カンボジアの人々が元気になって、自分たちで遺跡の保存・修復ができるようになりつつあります。その指導者として、今日お越しくださったアン・チュリアン先生がいらっしゃるわけです。ご清聴ありがとうございました。

基調講演2/第22回福岡アジア文化賞大賞受賞「死者の神、生者の神‐カンボジア宗教史における神"ヤマ(閻魔)"信仰と儀式‐」アン・チュリアン氏

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はじめ、世界には「時間」の概念がありませんでした。しかし、ヤマという神が死んだとき、その死を嘆く双子の妹ヤミーと、ほかの神々との問答をきっかけに「夜」ができ、同時に「時」「時間」が生まれました。「時」とは「昼夜を繰り返す循環」、ひいては「無限に続いていくサイクル」を意味します。人もまた循環している=死んだあと生まれ変わることから、ヤマは死者の神であると同時に生者の神であるとも言えます。

ヤマは「南」の方角をつかさどるインド由来の神です。閻魔大王として日本でも知られているように、現世の行いに対して天国に行くのか地獄に行くのかの判断をし、人々の来世を決めます。アンコール・ワットの南回廊には天国や地獄に関するレリーフがたくさん彫られていますが、そこには水牛にまたがったヤマの姿もたくさん描かれています。キンカラというヤマの従者が人々を拷問に連れて行く様子や、悪い魂が拷問を受ける様子も見られます。

ヤマがつかさどる「南」という方角と同様に、重要な方角があります。それは「北東」です。北東は、輪廻転生をつかさどる方角だとされています。

9世紀から15世紀半ばまでカンボジアの都として栄えたアンコール・トム。その北東に、「ライ王のテラス」と呼ばれる場所があります。テラスの壁にはヤマの従者キンカラが地獄で待ち構える姿が彫られています。

ライ王のテラスからは、一体の像が出土しました。その像が苔むしてライ病患者のように見えたため、地元の人たちから「ライ王」と呼ばれるようになったのですが、これは実はヤマの像でした。

カンボジアの王宮の北東には王族専用の火葬場があります。また、タイの王宮にも全く同じように、北東に火葬場が作られています。タイも昔カンボジアから多くの影響を受けていたからです。

アンコール地域の寒村では、火葬をする際、火葬場の北東の角にヤマの祭壇と砂山が作る風習があります。

4月半ば、カンボジアの新年には、家の前など様々なところで砂山が作られます。新年に砂山を作る理由は、新年=新しい時の始まりに、新たなスペース=新たな世界を作る必要があるからです。では、なぜ火葬の場にも砂山が作られるのでしょうか?それは、砂山を作ることが新しい命や新しい世界を死者のために作ることを意味しているからです。

カンボジアでは、9月ごろの丸々2週間、死者の為にある儀式が行われます。この儀式は近隣諸国には見られない重要なものですが、夜行われるので、海外からの観光客は気づいていないかもしれません。この儀式を行う際、ヴィヘアと呼ばれる僧院の神聖な空間の北東に、ヤマの祭壇が作られます。そして、夜明けの時間帯に、肉体を持たない魂=プレットのために、新しい肉体を意味するもち米のおにぎりを投げる儀式が毎日行われます。

最後に稲作に関わる話をしましょう。お米はカンボジア・日本両方で重要なもので、神道の儀式にもお米が使われます。カンボジアでは、5月は雨期の始まり。新しい稲作のサイクルが始まる時期です。この稲作の始まりを祝う儀式の場でも、北東にヤマの祭壇と砂山が作られます。稲作に関わる儀式なのに、火葬の時と同じものが見られるのはなぜでしょうか?それは、稲作も人々の人生も「循環するもの」だからです。ですから、ヤマは死者の神、生者の神であると同時に、お米の神とも言えるのです。

北東という方角、ヤマ、輪廻転生、永遠に続く循環が、いかに大切なものなのかがわかるでしょう。ご清聴ありがとうございました。

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対談/アン・チュリアン氏×石澤 良昭氏「福岡アジア文化賞の価値」

アン:日本の歴史の中で、福岡は、中国や韓国の文明を積極的に取り入れ、日本の人々と日本以外の人々を繋げる窓口となってきました。そういう意味では、アジアの人々や組織のために尽くした人や団体を福岡が顕彰するのは、当然のことなのかもしれません。

福岡アジア文化賞のこれまでの受賞者のリストには、2000年に大賞を取られたインドネシアの作家アナンタ・トゥール先生など、私が尊敬する人がたくさん含まれています。映画監督の黒澤明さん、インドの音楽家ラヴィ・シャンカールさんもいますね。文化賞が始まったのは1990年ですが、もっと早く始まっていれば、私が尊敬する映画監督の小津安二郎さんと、溝口健二さんも受賞されていただろうと思います。

私が受賞した年には、韓国の方(趙東一氏)やドイツの方(ニールズ・グッチョウ氏)が受賞しています。このように、アジア以外の国の受賞者も名を連ねています。文化賞の受賞者の地理的な広がり、根ざす文化の多様性を表していますね。

カンボジアに関して申しますと、最初に授賞したのはチェン・ポン先生。カンボジアの脚本家です。そして、昨年コン・ナイさんという盲目の音楽家が芸術・文化賞を受賞しました。私にとって、とても心を揺さぶられる出来事でした。というのも、彼のように学校に行っていない人は、カンボジアの社会や若者から、無視される存在になりがちです。そんな中、彼が福岡アジア文化賞を受賞したということが、どんな意味があるのかと考えてみてください。その才能が、この福岡市によって顕彰されたのです。彼のような人物に賞を授けるということは、カンボジアの文化がほかの国の文化と繋がっているということ、カンボジアでは忘れられたような文化に光が当てられたということになるのです。

自分自身のことを公の場で語るのは難しいことですが、私にとっても、受賞が大きな勇気を与えてくれました。私は名声を求めたことはありませんが、しかしこの賞をいただくことができた。個人が何かを成し遂げたということは、必ず誰かと共に成し遂げたことだということも覚えていてほしいです。

石澤:カンボジアに足をつけたアン・チュリアン先生の研究は素晴らしいものです。あるとき、パリでアン・チュリアン先生が博士論文の準備をされていた。そのとき初めて、砂山が仏教ではなく稲作と関係があるということを仰られた。当時、審査の先生から、すごい論文が出て受理されたという話を聞きました。その時のアン・チュリアン先生の覚悟をお聞きしたいと思います。

アン:アニミズムと仏教、そしてヒンドゥー教を混ぜ合わせるという考え方は、日本にも言えることだと思います。日本でも、一生のうちで神社やお寺を訪れますね。田舎には八百万の神が居ます。同じことがカンボジアにもあります。カンボジアも、「仏教の国」というわけではなく、いろんな神がいるのです。

私はカンボジアで最も有名な中学校を出て、王立芸術大学に新たにできた考古学の学部に入りました。5年間学びディプロマを取得したあと、フランス政府の奨学金を得てフランスで博士号を取り、カンボジアに戻ってきました。今69歳になりましたが、今も教鞭をとっています。1969年に自分が入った大学で、今も教えているのです。やめようと思ってもなかなかやめきれません。運命という言葉は信じませんが、ずっと前から無意識のうちに人生の中で道ができてきたのかもしれません。

今は文化人類学や社会人類学と呼ばれていますが、その学問のおかげで農村部の生活に近づくことができました。私は、農家の人々や田舎が大好きです。今でもシェムリアップに行くと、アンコール地域の村々を訪れます。何度訪れても新しい発見があります。

石澤先生はアンコールの専門家ですが、先生も新しいことを毎回発見するのではないでしょうか?学ぶことには決して終わりがないと思います。

石澤:アン・チュリアン先生のお話を聞いて、福岡アジア文化賞の本質的な意味が見えてきた気がします。賞を作った桑原さん(桑原敬一元市長)は、「福岡アジア文化賞の50年後を見てください。50年後の福岡の為に作ったんです」と仰っていました。

アジアの精神文化のプロダクツが、いろんな儀式や儀礼、パフォーマンスだったりする。そんな儀式や儀礼の背景にあるアジアの精神性に注目し、その地域の価値基準の塊なのだとみんなに知ってもらうため、いろんな形のアプローチをしていく。

桑原さんがNHKの一時間番組を作られたとき、中根千枝先生竹内實先生などいろんな先生に出演してもらいました。そのとき、50年後に文化賞がどんな形でアジアに貢献しているか、という話になりました。

ミャンマーの受賞者には、ヤシの葉っぱに書かれた文書を保護されている先生(トー・カウン氏)や、マンダレーの文化を研究している先生(タン・トゥン氏)などがいます。それまで全く陽の当たらない先生でしたが、賞をもらったことをきっかけとして10数冊の王朝年代記を作られました。

カンボジアのチェン・ポン先生は、3日ほど前にお墓参りに行ってきたところですが、福岡アジア文化賞の賞金で古典舞踊を学ぶ場を作りました。今も地域の娘さんたちが集っています。文化は時を超えて継承されていて、そういったことに福岡アジア文化賞が光を当てています。

市民の皆様にも、アジアの精神性やいろんな儀式について、知ってもらいたいと思います。(文化賞では)学校に受賞者が出かけていって直接話をします。こういうことは、ほかに例がありません。もうすぐ30回を迎えますが、世界中に、福岡ここにありと発信することができます。それには文化が最も重要です。福岡は遣唐使が派遣されたところですし、今度沖ノ島が世界遺産になりました。その活動が大きく発展することをお祈りしています。

アン:授賞の際に初めて日本に来ましたが、すごい経済力だなと思いました。そして、人々が文化遺産に非常に注意を払っているということにびっくりしました。受賞者の名前を拝見すると、ほとんどが文化や無形遺産に関わる人ばかりです。

石澤:福岡アジア文化賞は今後アジアの中でもっともっと地に足をつけて発展していくということがわかってきました。ひとえに市民の皆様のおかげだと、市役所に代わって私がお礼を述べたいと思います(笑)。

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