アンソニー・リード/ 2002年(第13回)学術研究賞

画像:アンソニー・リード/ 2002年(第13回)学術研究賞

2002年3月25日、ロンドンからの長い一晩のフライトで疲れていた私は、朝方、当時住んでいたロサンゼルスの自宅に戻りました。私が不在の間に妻の家族が来ていたので、彼らと話をしようとすぐには寝ずに起きていました。
ちょうどその時、一本の電話が鳴りました。しかし私は突然の電話に驚き、その電話の内容を理解するのに時間がかかりました。その電話は、(福岡アジア文化賞委員会で選考委員をされていた)石澤先生からで、私が300万円の賞金とともに、福岡アジア文化賞の学術研究賞を受賞したというものでした。【この時、ちょうど自宅を訪れていたニュージーランド人の妻の両親に対して、福岡市がどこにあるのか、福岡アジア文化賞がなぜ私に興味を持ってくれたのかを説明をする間、シャンパンが必要だったのはもちろんです。私の眠気はこのニュースを聞いて吹き飛んでいってしまいました。】

ちょうどその時期、私は国立シンガポール大学のアジア研究所の初代所長となるべく、ロサンゼルス大学からシンガポール大学へ席を移していました。そのため、どちらの大学の同僚とも福岡アジア文化賞の受賞を祝うことができませんでした。また、福岡アジア文化賞事務局の皆様もお困りになったことでしょう。ニュージーランド生まれでアメリカに足を掛け、もう一方ではシンガポールにも足を掛けているこの学者を「オーストラリア人」と呼んでよいものだろうか、と。

その時から私は、福岡アジア文化賞を通じてアジア文化のコミュニティーを作り出そうとしている福岡市の努力に感銘を受け続けてきました。また私は、同年(2002年)の受賞者たちから多くのことを学ぶことができました。マレーシア人の漫画家であるラット氏は、昼食の際、間違えようのないほどそっくりなマハティール首相(当時)の似顔絵を私のナプキンに描いてくれました。

私が考えるオーストラリアの未来像は、日本のようにアジアにおいて役割を果たしていくことです。より広いアジア共同体の創造的なメンバーとして、豊かさと安定性を兼ね備え、地域をひとつにまとめる上で創造的な役割を担うことができるようになることです。福岡市はこの点において先駆者であり、故に私は福岡市に深く感謝しています。
 

 

 

 

 

 

 

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