贈賞理由
スニール・アムリス氏は、グローバルな視野の「鳥の眼」とローカルな文脈を重視する「虫の眼」の両者を併せ持つ稀有な歴史家であり、今後更なる活躍が期待できる逸材である。氏は既に英文単著を四冊発表しているが、これらにほぼ一貫しているのは、ベンガル湾を基軸とする南アジアと東南アジアにまたがる領域を対象にした、国民国家の枠を超えるアジア史をテーマとしている点である。
アムリス氏は、1979年にインド系移民としてケニアで生まれ、シンガポールで幼少年期を過ごす。その後、ケンブリッジ大学に進学し、2005年に博士号(歴史学)を取得している。学位論文は、Decolonizing International Health(2006)と題する、20世紀半ばの南アジアと東南アジアの国際保健の歴史を描いた一書に結実している。その後、ロンドン大学バークベック校講師、ハーバード大学教授を経て、2020年よりイェール大学の教授として歴史学を講じている。
第三作のCrossing the Bay of Bengal(2013)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、イギリス帝国の支配下に、約2700万の人々がベンガル湾を越えてインドからセイロン(スリランカ)・ビルマ(ミャンマー)・マラヤ(マレーシア)の労働現場へと移住した史実を主題としている。単なる移民史を超えて、移民労働者たちの過酷な労働現場における「生」の実相に迫ろうとする中で、移民たちの「心」の在処をできる限り探ろうとする試みがなされており、ベンガル湾をめぐる「精神史」とも言うべき作品になっている。
アムリス氏は、近作のUnruly Waters(2018)(邦訳『水の大陸 アジア』(2021))では、人と自然環境の関係性を主題にして、英領期のインドにおける干ばつ・飢饉への対応そして灌漑建設、独立後におけるダム建設そして緑の革命など、開発の過程が「人」と「水」の関係性を大きく変容させた史実に着目しつつ、その過程を環境・経済・政治への視点のみならず、思想のドラマを含んだ見事な語り口で描いている。さらに、中国を含めた広域のアジアにも視野を広げ、近年における「水」をめぐる危機的状況-気候変動(モンスーンの変調)、地下水の枯渇、国境紛争、海面水位の上昇など-を取り上げながら、現代的な問題意識を歴史劇の語りの中に織り込んでいる点も注目される。
インド系ディアスポラという自らのアイデンティティに基づきつつ、ベンガル湾を基軸とするローカルな文脈に基盤を置く「グローバル・ヒストリー」を実践する、類まれなアジアの歴史家であるスニール・アムリス氏は、まさに「福岡アジア文化賞 学術研究賞」にふさわしい。