贈賞理由
タイモン・スクリーチ氏は、江戸を主たるフィールドとする美術史家であり、広くビジュアル情報(視覚史資料)として残された歴史を解明し続ける博覧強記の日本研究者である。美術「を」研究するのみならず、美術「で」研究する学者ともいえる。
スクリーチ氏は、1961年に英国バーミンガムに生まれた。1985年にオックスフォード大学(東洋学)卒業後、ハーバード大学で修士号及び博士号(いずれも美術史)を取得、1991年から2021年までロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)において、さらに2021年からは国際日本文化研究センター教授として研究活動を展開している。また2018年にはthe British Academy のフェローに迎えられている。
スクリーチ氏は、研究の初期段階において、戯作文学、浮世絵など大衆的なビジュアル・カルチャー(視覚文化)、蘭学の相互の影響関係を明らかにするという問題意識を獲得し、多くのビジュアル資料から得られる証拠を支えとしながら意識の歴史を追ってきた。その成果は、大著の博士論文The Western Scientific Gaze and Popular Imagery in Later Edo Japan (1996) (邦訳『大江戸視覚革命』(1998年))として結実するが、その後も、人体解剖に焦点を当て、オランダでは切開が真理に至る唯一の方法であったのに対し、日本では多々ある真理へのアクセス手段の一に過ぎなかったと論じる『江戸の身体を開く』(1997年)、春画を芸術として美化するのではなく、春画は江戸のポルノグラフィーであると喝破する『春画―片手で読む江戸の絵』(1998年)といった話題作を立て続けに出版し、内外の学界に大きな衝撃を与えてきた。
美術は、それを生み出すメカニズムやそれを取り巻く文化的、社会的、経済的状況との相互作用と切り離しては論じ得ない。美術のこの側面に対するスクリーチ氏の意識は一貫して明確であるが、『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』(2003年)ではさらに一歩を進め、松平定信、狩野派、円山応挙、司馬江漢、谷文晁等を通して、政治と美術を扱い、視覚政治学ともいうべきジャンルを切り開いている。また氏の作品では、江戸時代における欧州との交流という視座が重要な位置を占めており(たとえば『阿蘭陀が通る―人間交流の江戸美術史』(2011年))、自ずと世界史の文脈における日本史(グローバル・ヒストリー)としての性格を帯びるスケールの大きさを併せ持つ。他方で『江戸の大普請―徳川都市計画の詩学』(2007年)ではかかる視座は敢えて脇におき、京都に対抗した新たな都市空間づくりという観点から江戸を分析する斬新な江戸研究を提示し、学界を刺激している。氏の作品は英語圏にとどまらず韓国語および中国語にも翻訳されて一層評価を高めている。
膨大なビジュアル及び文献情報を、多元的かつグローバルな視点から、斬新な方法論によって分析することで江戸研究の新たな地平を切り開いてきたタイモン・スクリーチ氏は、まさに「福岡アジア文化賞 学術研究賞」にふさわしい。